中国の影響が強く残るタイ・ミャンマー国境山あいの村、メーサロン

   
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 バーン・メーサロン(メーサロン村) Ban Mae Salong


国共内乱で中国大陸を南下してきた旧国民党軍の家族が尾根を切り拓いてつくった町で、中国語の表記は美斯楽村。人口は約1万人。第二次インドシナ戦争が終了した1980年代にタイ軍が駐留して観光地化された。アメリカ映画『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』のモデルにされたが、世界史の影響をもろに受けた避難民の町である。今日では2万本ヒマラヤヒカンザクラが咲く、タイ国内では屈指の避暑地として有名。台湾からの観光客も多い。

2006年2月1日発行 1号 掲載記事

 

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2018年 7月 タイ・メーサロン チェンマイからタイの中の雲南省、美斯楽へ。 (2018/07/14ころ)

メーサロンへ行くのは3回目。 お茶以外何も無いし、興味のない人にとってはつまらない所かも知れないけど、広大に広がる茶畑は圧巻だし、標高が1000m超えるのでタイとは思えぬ涼しさで避暑にはもってこい。 小さな街(村?)全体が中国の田舎風でそこにアカ族等の少数民族も加わり、一瞬ここがどこの国なのか分からなくなるカオスな感じも好き。 以前はお茶目当てで行ったけど、今回は今はまっているトナオ(アジア納豆)や腐乳と中国雲南、タイの関係についてもう少し詳しく知りたくて行ってみました。 今回はチェンマイからメーサロンへの行き方からご紹介します。
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ドイ・メーサロン逍遥(2018年6月) (2018/06/01ころ)

「1949年に国共内戦に敗れた国民党軍の一部は陸路雲南よりビルマ(シャン州)に侵入し,CIAの支援のもとで李弥将軍の指揮下に「雲南反共救国軍」を組織し,数次にわたり雲南省への再侵攻を試みている。この「反攻大陸」の試みが失敗した後も国民党軍は1950年代を通じシャン州の山地を支配し,周辺の山地諸民族を従えて阿片の生産・流通を独占していた。この阿片は陸路タイ国境へと運ばれ,同じくCIAの武器援助を受けたパオ警察局長指揮下のタイ国家警察とのあいだで阿片と武器の交易が行われていた(ただし当時のピブン政権のもとでは,こうした関係は公には秘匿されてきた)。」 「国民党軍によるシャン州占拠に業を煮やしたビルマ政府は,1960年11月より中国共産党政権との共同による掃討作戦を開始する。その結果,国民党軍は台湾への送還を余儀なくされるが,そのうち李文煥将軍の第三軍および段希文将軍の第五軍は送還を拒みタイ領内へと移住し,それぞれチェンマイ県のタムゴップとチェンライ県のメーサロンに司令部を置き根拠地とした。」 「ようやく1967年から1970年にかけ,中華民国政府(台湾)とのあいだで国民党兵士の移送問題について交渉が行われるが,これも最終的に李文煥,段希文両将軍の移住拒否によって成果を見ぬまま終了している。」 「国民党軍に対する1960年代のタイ政府の対応は,こうした腫れ物にさわるかのような対策(無策)に終始したといってよい。公式には「招かれざる客」であっても,反共武装勢力による国境占拠は,防共上の観点からは歓迎すべきものですらあった。リントナーは当時のこうした関係について,タイ政府にとって国民党軍の存在は「非公式の国境警察」であり,阿片密輸の黙認がその報酬であったと指摘している。」 「CIA によれば,1966–67年の時点で国民党軍が占拠していた北部国境は総延長75マイルに及ぶとされていたが,シャン軍指導者が1971年に行った説明では,国民党軍による阿片業者からの「通行税」 徴収は,メーサイからメーホンソーンに至る国境線のすべてに及んでおり,シャンの隊商は国民党軍に「通行税」を支払わずにはタイ領内への入国が不可能になってさえいたのである。」 「タイ政府と中華民国政府との外交交渉が1970年に終結するに及んで,李文煥,段希文の両将軍は最終的にタイ国への定住を希望する旨を明らかにし,難民身分としてタイの国法に従うという考えを表明している。またこれにあわせ,彼らはタイ国軍に協力してタイ共産党軍と戦う意志のあることを申し出ている。 これを受け,タイ政府の国民党軍に対する処遇は,単なる黙認から積極的な活用へと転じていく。そのひとつの理由は,タイ共産党のゲリラ活動が1960年代後半に急速に激化したためである。共産主義をあくまで外敵の脅威としてのみ想定し,自国内のゲリラ戦対策を怠ってきた軍部にとってこれは予想外の事態であり,そのことが山岳戦に長じた国民党軍への注目を促すこととなった。」 「政府は1970年10月の閣議で国民党軍兵士とその家族を難民として認知し,国軍最高司令部直属の「04指揮部」の監督下にタイ国内での居住を認める一方,その代償としてタイ共産党軍の勢力の強いチェンライ県東部(パータン)への一部国民党兵士の入植を決定する。このパータンでの剿共戦後に国民党軍は04指揮部麾下の『泰北山区民衆自衛隊』に改組されることになる。」 「なおこうした一連の作戦により,国民党軍の支配する国境線は1980年代初頭にはむしろ拡大している。これは従来西部ビルマ国境を支配していた国民党軍が正式に定住を認められ,さらに東部ラオス国境の剿共戦にも参加するようになったことの当然の結果である。」 片岡樹,2004年9月「領域国家形成の表と裏?冷戦期タイにおける中国国民党軍と山地民?」『東南アジア研究42巻2号』より
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メーサローンへの道 (2016/08/21ころ)

チェンライ滞在の初日、スワンナプーム空港早朝5時着のJL便から乗り継ぎ、9時には空港に到着する予定だったので、地元の旅行会社にメーサローン行きのツアーを申し込んでおきました。 四駆のワゴン車に僕ひとり。日本語のできるガイドさんと運転手さん、そして研修中(インターンシップ?)だという大学生の女の子。 空港を出て、チェンライの町とは逆方向のメーサーイ方面に向かいます。そしてメーチャンという町を左手に逸れて、だんだんと険しくなる山道を登っていくと… 台湾に脱出した国民党の流れを汲む人たちが多く暮らすメーサローンへ。
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